生き死にについて考えてみる きっかけに

もしもの話をもっと気軽にできる世の中になれば               グリーフケアやスピリチュアルケアの話も

9.11

あれから18年

間もなくニューヨークでは追悼式が行われる頃でしょう。

18年前の夜。

ドラマのクライマックスか、最終回の大事なシーンだったかを見ている最中に突然切り替わったテレビ画面に映し出されたのは、ワールドトレードセンターに突っ込む飛行機。

放送事故で何かの映画が放映されてしまっていると思うくらい衝撃の映像で、ビルは間もなく崩れ落ちました。

18年前の2001年。平成生まれの人たちが同時多発テロをリアルでは知らないと言っても仕方ないですが、戦争同様決して忘れてはいけないことだと思います。

 

追悼集会で朗読された詩

同時多発テロの追悼集会で朗読され、大反響を呼んだこの詩。

当時は亡くなった消防士がその直前に書いたという話でしたが、その後この詩はテロとは全く関係のないもので、ある母親が子を想って書いたものと判明しました。

これはこれで涙なしでは語れないほどの凄い家族の物語があるのですが、それはまた別の機会にご紹介したいと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「最後だとわかっていたなら」

日々起こる交通事故やまだ記憶に新しい京アニの放火事件。

「朝元気に出て行ったのに」

「今日に限って顔を見て行ってらっしゃいを言わなかった」

多くの方々にそれぞれの後悔がきっとあると思います。
追悼式で朗読された詩をご紹介します。(英語の原文も下記に)

 

・‥…─*・‥…─*・‥…─*・‥…─*・‥…─*・‥…─*・‥…─*

最後だとわかっていたなら/原題「Tomorrow Never Comes」   
  
作 / ノーマ・コーネット・マレック / Norma Cornett Marek
訳 / 佐川睦 
引用 / 『最後だとわかっていたなら』 サンクチュアリ出版

 

あなたが眠りにつくのを見るのが 
最後だとわかっていたら 
わたしは もっとちゃんとカバーをかけて 
神様にその魂を守ってくださるように祈っただろう 

あなたがドアを出て行くのを見るのが 
最後だとわかっていたら 
わたしは あなたを抱きしめて キスをして 
そしてまたもう一度呼び寄せて 抱きしめただろう 

あなたが喜びに満ちた声をあげるのを聞くのが 
最後だとわかっていたら 
わたしは その一部始終をビデオにとって 
毎日繰り返し見ただろう 

あなたは言わなくても 
わかってくれていたかもしれないけれど 
最後だとわかっていたなら 
一言だけでもいい・・・「あなたを愛してる」と 
わたしは 伝えただろう 

たしかにいつも明日はやってくる 
でももしそれがわたしの勘違いで 
今日で全てが終わるのだとしたら、 
わたしは 今日 
どんなにあなたを愛しているか 伝えたい 

そして わたしたちは 忘れないようにしたい 

若い人にも 年老いた人にも 
明日は誰にも約束されていないのだということを 
愛する人を抱きしめられるのは 
今日が最後になるかもしれないことを 

明日が来るのを待っているなら 
今日でもいいはず 
もし明日が来ないとしたら 
あなたは今日を後悔するだろうから 

微笑みや 抱擁や キスをするための 
ほんのちょっとの時間を どうして惜しんだのかと 
忙しさを理由に 
その人の最後の願いとなってしまったことを 
どうして してあげられなかったのかと 

だから 今日 
あなたの大切な人たちを しっかりと抱きしめよう 
そして その人を愛していること 
いつでも いつまでも大切な存在だということを 
そっと伝えよう 

「ごめんね」や「許してね」や 
「ありがとう」や「気にしないで」を 
伝える時を持とう 
そうすれば もし明日が来ないとしても 
あなたは今日を後悔しないだろうから

 

If I knew it would be the last time that I’d see you fall asleep, 
I would tuck you in more tightly, and pray the Lord your soul to keep. 
If I knew it would be the last time that I’d see you walk out the door, 
I would give you a hug and kiss, and call you back for just one more. 

If I knew it would be the last time I’d hear your voice lifted up in praise, 
I would tape each word and action, and play them back throughout my days. 
If I knew it would be the last time, I would spare an extra minute or two, 
To stop and say “I love you,”instead of assuming you know I do. 

So just in case tomorrow never comes, and today is all I get, 
I’d like to say how much I love you, and I hope we never will forget. 
Tomorrow is not promised to anyone, young or old alike, 
And today may be the last chance you get to hold your loved one tight. 

So if you’re waiting for tomorrow, why not do it today? 
For if tomorrow never comes, you’ll surely regret the day 
That you didn’t take that extra time for a smile, a hug, or a kiss, 
And you were too busy to grant someone, what turned out to be their one last wish. 

So hold your loved ones close today and whisper in their ear 
That you love them very much, and you’ll always hold them dear. 
Take time to say "I’m sorry,"... "Please forgive me,"... "thank you" or "it’s okay". 
And if tomorrow never comes, you’ll have no regrets about today. 

・‥…─*・‥…─*・‥…─*・‥…─*・‥…─*・‥…─*・‥…─*

 飛行機が突っ込み崩壊しかけたビルの中で次々に愛する人に電話していた人たち。
その最期の言葉はよくアメリカ人がお決まりのように言う "I love you." だったそうですが、遺された人にとってはいかにその "I love you" がその後の生きる支えとなっていることでしょう。

そう考えると、やはり私は「言霊」という言葉を思わずにはいられません。
日々多忙な中でもせめて1月17日、3月11日、8月6日、8月9日、8月15日、9月11日くらいは愛する人や大切な人たちに普段恥ずかしくて言えないような感謝や想いを口に出してみるようにしてみるのもいいのではないでしょうか。

「こんなはずじゃなかった」
という取り返しのつかない後悔に苦しむことのないように…。
 
 

「死の準備教育」という言葉

同じことを考えていた人が!

偶然手にした父が持っていた本。

「よく死ぬことは、よく生きることだ」。

「どういう死を迎えたいかを考えることは、必然的にどう生きるかを見つめることに考えることになるのでは」と考えていた私にとってこの本のタイトルはありがたく、一気にこれを読み終えました。

よく死ぬことは、よく生きることだ (文春文庫)

よく死ぬことは、よく生きることだ (文春文庫)

 

「死の準備教育」という言葉との出逢い

この本は1990年(平成2年)発行。筆者の千葉敦子さんはフリージャーナリスト。

乳がんと診断され、最期は好きなニューヨークで過ごしたいとアメリカで治療を受けられていた方です。
アメリカでは当時でもすでに市民が図書館などで様々な医療情報を収集することができ、主治医も一人ではなく複数で、何かあれば連絡を取り診察してもらい、一人の医師の意見を他の医師に伝えて更に意見を聞くということが可能という驚くべき世界。

悲しいかな、日本ではその辺の街中で医療情報を得ることができないどころか、主治医に気を遣ってセカンドオピニオンを受けることができない人すら数多くおられるのが現状です。

セカンドオピニオンは立派な患者の権利ですが、「私の診断では不服なのか」というスタンスの医師が実際にいることを知っているので、患者がそれを怖がっていることはよく理解できます。

そしてこの千葉さんの本の中で、千葉さんが帰国された際に上智大学名誉教授でおられるアルフォンス・デーケン神父から当時上智大学で開かれていた社会人向けの「死の準備教育」という公開講座で講演するよう依頼されていたことを知りました。

私がしたかったことは「死の準備教育」

「死の準備教育」

この言葉に衝撃が走りました。

私がしたいと思っていたことを既に実行している方がおられること、それが同じ神を信仰するドイツ人で、戦争で家族を亡くし日本を愛し、日本で骨をうずめる覚悟で死の準備教育を広めるべく尽力されていることを知ったのです。

デーケン神父の死に関するご著書は下記をはじめたくさんあります。 

より良き死のために――「死への準備教育」創始者が伝えたいこと

より良き死のために――「死への準備教育」創始者が伝えたいこと

 

 私も引き継ぎたい

デーケン神父と想いを同じくする方々が多くおられることも知りました。
千葉さんは私がそのご著書を読んだ時には既に天に行かれており、デーケン神父はご存命ですがご高齢のために最近はご活動を控えておられます。

この出逢いもあり、死の準備教育を広げることが私の天命なのではという思いを強くするようになりました。
そのためにもこのブログを始め、継続することを当面の目標としてやっていきたいと思います。

読んで下さりありがとうございました。

初めまして

ごあいさつ

皆さん初めまして。今日からブログをはじめることにしました。
どうぞよろしくお願いいたします。


タブー視されがちな「死」

私はなぜかタブー視されがちな「死」について高校生の頃からよく考えていました。


「4」は「死」を連想させるから不吉というけれど、どうして「幸せのし」とは考えられないのだろう?

人は生まれた瞬間から死に向かっているのに、どうして死ぬときのことを考えていないのだろう?

神様がいるかいないか、無神論でもいいからはっきりとした自分の意見を持った大人がどうしてこんなに少ないんだろう?

生意気な十代ですが本当にそう考えていましたし、今でもこの思いは変わりません。
そんな中、社会人になってこのようなことを人と話すと

「こんな話を人としたことはなかった」
と言われるものの、どなたからも嫌がられたことや拒否されたことはなくむしろ

「これは大切で必要な話題だと思う」
と言われてきました。

それから年月を経るにつれ、このようなことをどう広げていったらいいかと考えているときに考えた一つがこのブログです。

まずは継続していくことを目標に書いていきたいと思いますので
どうぞよろしくお願いいたします。